想像と創造、あるいは大場ななの未来

あらまし

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト劇場アニメ『映画大好きポンポさん』公式サイトを見よう。もう見た人はもう1回見よう。以上。

再演と舞台少女の死

ロンド・ロンド・ロンドのパンフレットによれば、大場ななは転校が多く学校行事にもあまり参加できない生活を送っていたそうである。だからこそ第99回聖翔祭は眩しく、その眩しさを失いたくないが為に再演を繰り返したのだろう。大場は毎年行われる恒例行事に参加した事がほとんどない。今回の行事は来年もまたあるという実感を持てていないのだ。そこで再演を繰り返して同じ景色を見ようとした。しかし、その再演は神楽ひかりの登場によって終わりとなった。知らないはずの登場人物に敗れ、そこから影響を受けた者に敗れ、オーディションを見る側に下ってしまったのだ。

ここで想定外への対応の弱さが垣間見える。あの天堂真矢に膝をつかせるだけの力があれば、輝きを失った状態の神楽ひかりなら負けはしなかっただろう。さっさと倒してしまえばよかったのだ。それをうだうだと相手の確認をしている内に再生産されてしまった。想定外の状況が生まれた時点でそれを取り込もうとしてしまう。即興で対応せず、見る側に回ってしまうのだ。

レヴューに勝ち、キリンを満足させる、再演の条件を知っている大場はかなり有利な立場である。再演自体を目的とするなら神楽なんて見る必要はなかったはずだ。気まぐれで動くタイプでもない。すると反射的にそうなってしまったと考えられるのではないか。筋書きにないものはまず見てしまうのだ。

レヴューでは即興ができずに見てしまうと、敗北してそこで終わる。では、レヴューの外ではどうなるか。その1回目が再演の始まりだ。望んでいないものという形態での想定外を見たとしても再演を繰り返せばいいだけである。やり直しがきくのだ。今回の新たなレヴューも同じだ。妥協の産物になりかけるという形での舞台少女の死を目にし、そんなものは許さないとレヴューを始めたのだ。花柳達は大場が考える筋書きにない、現状の言い訳のような会話を喋りすぎていた。レヴューによって自分の筋書きを通そうとしたのだ。

血糊の味

筋書きの話をすると、大場は全国中学校時演劇コンテストで脚本の優秀賞を受賞する程のものを書いていたそうだ。また聖翔に来てからは創造科ととも舞台装置を作っており、進路でも俳優と制作で迷っているようである。皆殺しのレヴューの舞台装置も恐らく大場の制作だろう。オーディションにおけるレヴューならば役者が求めれば適度な舞台装置として血糊も含めて生成されるはずである。デコトラや東京タワーが出せるんだから血糊くらいは大したものではない。しかもわざわざ天堂が舞台装置と言っている。恐らく見るからにわかるのだ。レヴューの舞台は理外のものだが、今回の血糊は現実でもある血糊*1よろしく甘い。列車以外は大場が用意したものなのだろう。

そもそもオーディションでないレヴューをキリンに焚き付けられるのは大場であり、想定外のレヴューで補完が必要な舞台装置を作れるのも大場であり、舞台少女の死を気に入らないとレヴューを始める理由があるのも大場である。シャーロック・ホームズでなくとも大場が引き起こしたレヴューである事はわかる。

眩しさ

自分の用意したレヴューにも関わらず大場ななは三度敗れる。またしても相手の武器の進化、すなわち再生産によって敗れる。しかも自分の渡した切腹用の刀によって敗れるのである。ここまでくると自殺願望でもあるかのようだが、それを企図していたわけではない。想定では大場なな脚本の星見純那を見るはずだった。あの眩しかった星見を改めて見たい、もしそれが叶わぬならばその光が曇る前に腹を切れ、介錯してやる、そういう筋書きだったはずなのだ。しかしそれは叶わない。お前は誰だと言ってしまう程、大場も知らない主役星見純那が現れてしまった。その眩しさに目を奪われ、再び上掛けを落としたのだ。

ここでもやはり想像以上のものに目を奪われ、敗れている。見たかったはずの眩しさ以上の眩しさを見て目を離せなくなっている。結果的に再演と同じ事になってしまっている。しかも神楽の時と違って今度は準備期間もあったはずだ。それにも関わらずいきなり舞台に呼ばれてしまった星見に敗れている。しかし、その準備があったからこそ、星見の更なる眩しさを目にできたのである。

これはあくまで結果論だ。大場は求めてやまない眩しさが何かを理解できていなかった。理解できていればもっとスマートにもできただろう。大場がわかっていたらヤンキー漫画にはなっていなかったかもしれない。

ポンポさん

話は変わって映画大好きポンポさんの話をしよう。奇しくもスタァライトとポンポさんは延期の末に同じ日に公開された映画である。この映画ではプロデューサ兼脚本家のポンポさんに指名されたジーンが初監督を務めるというものである。特に編集を人生の取捨選択になぞらえ、何を切り捨てるかを描いている。

さて、このポンポさんは自分が見たい映画を見る為にジーンに監督を任せている。プロデューサとして人と金を集め、脚本家として話を作り、その上にジーンに監督を任せた。最後まで席を立たずに映画を見られない自分がエンドロールまで映画を見る為にそうした状況を作ったのだ。自分が見たいものは自分で作るものではないと自覚している。

では大場はどうだろうか。いつも完璧な舞台を用意しようとしているが、それをいつも超えられてしまっている。脚本家としての才がありながらも、それを超えられてばかりいる。それをわかってやってきたわけではないだろう。皆殺しのレヴューは嬉々として始めるようなものではない。

脚本と演出

脚本と言えば、脚本の眞井と演出の雨宮は劇場版でも詳しく描かれた2人である。注目される役割でありながら、大道具等と違って直接観客の目に映るものではない。その眞井が怖いと言いながらも最高の脚本にすると宣言している。最高の舞台を作る為に自分の役割を全うしようとしているのだ。これは自分の手から離れる場所も自覚しているという事でもある。これが大場にはなかった。

一人演劇部だった頃の大場は自分で脚本を書き自分で演出をし自分で舞台に立っていたのだろう。そこから脱却しきれていなかったのだ。皆で作った舞台で見た眩しさを見ようとしているのに、一人で舞台を作ろうとしてしまっていた。眞井と雨宮のように役割分担もなく、西條のように共に舞台を立つものへの競争心を見せるわけでもない。故に刀を足蹴にして渡し、それが自分に向けられると動揺するのだ。

そして、見たかった以上の眩しさに目を奪われてレヴューに敗れている。しかし、同時に期待以上の結果を得たと言えるのではないだろうか。星見は舞台に立ち続け、大場の想像にはなかったであろう飛躍としてアメリカに飛んでいる。自分はどちらか迷ったまま進路を選ぶのではなく、渡英を決意できている。これは脚本以上の舞台ではないだろうか。

王立演劇学院

大場は王立演劇学院に行く事を決めた。直接どこかの舞台に立つことに他の者とは違い、総合的に演劇を学ぶ学院*2へと進んだのだ。これは演者として舞台に立つ事を明示しない事でもある。何より、今回は眞井と雨宮にも焦点が当てられている。舞台少女は舞台に立つものではないのだ。舞台を作る者の全てが舞台少女なのだ。そして大場は自身の想像を超える脚本を創造してしまう才がある。再演の果てに舞台少女の死を、そして最果てにまだ見ぬ眩しさがあると気づいてしまったら、どう選択するだろうか。

全く異なる舞台で高みを目指し合う者たちも、競演を誓った者達も、次の舞台を分け合った者達もいる。それならば、脚本と演者という形でも同じ舞台と言えるのではないか。そういう再演もあるのではないと思ってしまうのだ。



*1:血のり

*2:王立演劇学校相当と仮定