想像と創造、あるいは大場ななの未来

あらまし

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト劇場アニメ『映画大好きポンポさん』公式サイトを見よう。もう見た人はもう1回見よう。以上。

再演と舞台少女の死

ロンド・ロンド・ロンドのパンフレットによれば、大場ななは転校が多く学校行事にもあまり参加できない生活を送っていたそうである。だからこそ第99回聖翔祭は眩しく、その眩しさを失いたくないが為に再演を繰り返したのだろう。大場は毎年行われる恒例行事に参加した事がほとんどない。今回の行事は来年もまたあるという実感を持てていないのだ。そこで再演を繰り返して同じ景色を見ようとした。しかし、その再演は神楽ひかりの登場によって終わりとなった。知らないはずの登場人物に敗れ、そこから影響を受けた者に敗れ、オーディションを見る側に下ってしまったのだ。

ここで想定外への対応の弱さが垣間見える。あの天堂真矢に膝をつかせるだけの力があれば、輝きを失った状態の神楽ひかりなら負けはしなかっただろう。さっさと倒してしまえばよかったのだ。それをうだうだと相手の確認をしている内に再生産されてしまった。想定外の状況が生まれた時点でそれを取り込もうとしてしまう。即興で対応せず、見る側に回ってしまうのだ。

レヴューに勝ち、キリンを満足させる、再演の条件を知っている大場はかなり有利な立場である。再演自体を目的とするなら神楽なんて見る必要はなかったはずだ。気まぐれで動くタイプでもない。すると反射的にそうなってしまったと考えられるのではないか。筋書きにないものはまず見てしまうのだ。

レヴューでは即興ができずに見てしまうと、敗北してそこで終わる。では、レヴューの外ではどうなるか。その1回目が再演の始まりだ。望んでいないものという形態での想定外を見たとしても再演を繰り返せばいいだけである。やり直しがきくのだ。今回の新たなレヴューも同じだ。妥協の産物になりかけるという形での舞台少女の死を目にし、そんなものは許さないとレヴューを始めたのだ。花柳達は大場が考える筋書きにない、現状の言い訳のような会話を喋りすぎていた。レヴューによって自分の筋書きを通そうとしたのだ。

血糊の味

筋書きの話をすると、大場は全国中学校時演劇コンテストで脚本の優秀賞を受賞する程のものを書いていたそうだ。また聖翔に来てからは創造科ととも舞台装置を作っており、進路でも俳優と制作で迷っているようである。皆殺しのレヴューの舞台装置も恐らく大場の制作だろう。オーディションにおけるレヴューならば役者が求めれば適度な舞台装置として血糊も含めて生成されるはずである。デコトラや東京タワーが出せるんだから血糊くらいは大したものではない。しかもわざわざ天堂が舞台装置と言っている。恐らく見るからにわかるのだ。レヴューの舞台は理外のものだが、今回の血糊は現実でもある血糊*1よろしく甘い。列車以外は大場が用意したものなのだろう。

そもそもオーディションでないレヴューをキリンに焚き付けられるのは大場であり、想定外のレヴューで補完が必要な舞台装置を作れるのも大場であり、舞台少女の死を気に入らないとレヴューを始める理由があるのも大場である。シャーロック・ホームズでなくとも大場が引き起こしたレヴューである事はわかる。

眩しさ

自分の用意したレヴューにも関わらず大場ななは三度敗れる。またしても相手の武器の進化、すなわち再生産によって敗れる。しかも自分の渡した切腹用の刀によって敗れるのである。ここまでくると自殺願望でもあるかのようだが、それを企図していたわけではない。想定では大場なな脚本の星見純那を見るはずだった。あの眩しかった星見を改めて見たい、もしそれが叶わぬならばその光が曇る前に腹を切れ、介錯してやる、そういう筋書きだったはずなのだ。しかしそれは叶わない。お前は誰だと言ってしまう程、大場も知らない主役星見純那が現れてしまった。その眩しさに目を奪われ、再び上掛けを落としたのだ。

ここでもやはり想像以上のものに目を奪われ、敗れている。見たかったはずの眩しさ以上の眩しさを見て目を離せなくなっている。結果的に再演と同じ事になってしまっている。しかも神楽の時と違って今度は準備期間もあったはずだ。それにも関わらずいきなり舞台に呼ばれてしまった星見に敗れている。しかし、その準備があったからこそ、星見の更なる眩しさを目にできたのである。

これはあくまで結果論だ。大場は求めてやまない眩しさが何かを理解できていなかった。理解できていればもっとスマートにもできただろう。大場がわかっていたらヤンキー漫画にはなっていなかったかもしれない。

ポンポさん

話は変わって映画大好きポンポさんの話をしよう。奇しくもスタァライトとポンポさんは延期の末に同じ日に公開された映画である。この映画ではプロデューサ兼脚本家のポンポさんに指名されたジーンが初監督を務めるというものである。特に編集を人生の取捨選択になぞらえ、何を切り捨てるかを描いている。

さて、このポンポさんは自分が見たい映画を見る為にジーンに監督を任せている。プロデューサとして人と金を集め、脚本家として話を作り、その上にジーンに監督を任せた。最後まで席を立たずに映画を見られない自分がエンドロールまで映画を見る為にそうした状況を作ったのだ。自分が見たいものは自分で作るものではないと自覚している。

では大場はどうだろうか。いつも完璧な舞台を用意しようとしているが、それをいつも超えられてしまっている。脚本家としての才がありながらも、それを超えられてばかりいる。それをわかってやってきたわけではないだろう。皆殺しのレヴューは嬉々として始めるようなものではない。

脚本と演出

脚本と言えば、脚本の眞井と演出の雨宮は劇場版でも詳しく描かれた2人である。注目される役割でありながら、大道具等と違って直接観客の目に映るものではない。その眞井が怖いと言いながらも最高の脚本にすると宣言している。最高の舞台を作る為に自分の役割を全うしようとしているのだ。これは自分の手から離れる場所も自覚しているという事でもある。これが大場にはなかった。

一人演劇部だった頃の大場は自分で脚本を書き自分で演出をし自分で舞台に立っていたのだろう。そこから脱却しきれていなかったのだ。皆で作った舞台で見た眩しさを見ようとしているのに、一人で舞台を作ろうとしてしまっていた。眞井と雨宮のように役割分担もなく、西條のように共に舞台を立つものへの競争心を見せるわけでもない。故に刀を足蹴にして渡し、それが自分に向けられると動揺するのだ。

そして、見たかった以上の眩しさに目を奪われてレヴューに敗れている。しかし、同時に期待以上の結果を得たと言えるのではないだろうか。星見は舞台に立ち続け、大場の想像にはなかったであろう飛躍としてアメリカに飛んでいる。自分はどちらか迷ったまま進路を選ぶのではなく、渡英を決意できている。これは脚本以上の舞台ではないだろうか。

王立演劇学院

大場は王立演劇学院に行く事を決めた。直接どこかの舞台に立つことに他の者とは違い、総合的に演劇を学ぶ学院*2へと進んだのだ。これは演者として舞台に立つ事を明示しない事でもある。何より、今回は眞井と雨宮にも焦点が当てられている。舞台少女は舞台に立つものではないのだ。舞台を作る者の全てが舞台少女なのだ。そして大場は自身の想像を超える脚本を創造してしまう才がある。再演の果てに舞台少女の死を、そして最果てにまだ見ぬ眩しさがあると気づいてしまったら、どう選択するだろうか。

全く異なる舞台で高みを目指し合う者たちも、競演を誓った者達も、次の舞台を分け合った者達もいる。それならば、脚本と演者という形でも同じ舞台と言えるのではないか。そういう再演もあるのではないと思ってしまうのだ。



*1:血のり

*2:王立演劇学校相当と仮定

2020年アニメ10選

2020年のアニメ10選を上げると次のようになった。概ねクール毎きれいに別れたと言えるだろう。それぞれについて簡単に感想を書いていきたい。

痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
恋する小惑星
SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!
かくしごと
魔王学院の不適合者 〜史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う〜
Lapis Re:LiGHTs
アサルトリリィBOUQUET
安達としまむら
ストライクウィッチーズ ROAD to BERLIN
ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rhyme Anima‬
ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。

今年も本渡楓は強かった。2010年代後半からVRMMOや異世界がアニメ業界も席巻しているが、そういった中で女性主人公の物も増えてきた。今年見た範囲だけでも乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…、くまクマ熊ベアー、デカダンスとこの他に3つもあった。その中でも防振りは先駆けとしていいポジションにつけたと思う。もうVRMMOの説明は不要となったが、独自の要素を見てもいいし、単に可愛いと見ているだけでもいい。特に後者について雑味がない。上手く美少女アニメの手法を導入できたのだろう。
また、劇中歌のGood Nightがとても好みだった。全く初めて聞いた劇中歌としては今年でもトップクラスの魅力だ。
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恋する小惑星

人の変化を丁寧に描く一方、宇宙というのは人のスケールからすればほぼ不変だ。その境界に位置するであろう小惑星の発見という目標を置いている。この設定の置き方が上手い。それを画としてもきれいに描けば自ずと魅力的なものとなるだろう。それを完成し切るという事が実に素晴らしい。

SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!

旧来からあるIPであるが、実質的には世界観だけを使った新規と思った方がよい。音楽物だけあって楽曲のレベルが高く、その上きちんとガール・ミーツ・ガールを描いていた。こんなの好きになるに決まっている。
今年は明らかに夏吉ゆうこさんの年であったが、それはここから始まっていたのだ。
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かくしごと

メディアミックスにおいては原作とアニメの終わり方をどう接地するかがとても難しい。漫画の最終回と同期してアニメも終えられた本作はそのお手本とも言えるだろう。アニメとしての面白さと漫画としての面白さは別だろうが、同じタイミングで終わらせるにはその質感を近似させていく必要がある。その上でアニメも面白くなくてはならない。その難しい着陸を本作はやってのけた。ただ称賛を送らざるを得ない。
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魔王学院の不適合者 〜史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う〜

俺TUEEEEなんてもはや過去の遺物のように思っていたが、それを魔王の慈しみとして描くとこれだけ魅力的なアニメになるらしい。あまりに強く上位存在である為、完全に展開がわかってしまうのだが、わかってしまうので嫌味がない。アノス様は強いから仕方ないという意識が視聴者にも刷り込まれていく。ファンタジー時代劇アニメの1つの形と言えるだろう。
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Lapis Re:LiGHTs

初期から見ていたコンテンツがこうしてアニメとして結実すると実に嬉しいものだ。特にこれだけ美しくクリアな光を描けたアニメは今年でもごく僅かではないだろうか。魔法を発動する際の光にしても、花に落ちる朝露にしても、これだけ微細に美しく描かれる事はそうない。またアイドルアニメだけあってライヴシーンも各話毎あったが、このCGも実によくできていた。画としてきれいだという事はアニメの圧倒的な強さになる。
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アサルトリリィBOUQUET

各回の感情の上下が激しく、行動としても静と動がはっきりしており、落差の大きいアニメだったと思う。その落差をどう埋めるかによって本作の評価は変わるのだろう。多くの場合、他のメディアに触れる事になるだろうが、メディアミックス特有のメディアによる設定の違いも多い。結果としてその余地をどう解釈するかが問われてしまう。舞台も小説も知っていて、監督としての佐伯さんにも触れていた私にはとてもいいアニメだった。

安達としまむら

単体で見ても面白いのだが、アニメリコというアサルトリリィと安達としまむらを連続で流す枠が天才的だった。
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ストライクウィッチーズ ROAD to BERLIN

ついにストライクウィッチーズも取り敢えずの完結だ。ここまで続けてきてくれてありがとう。感謝の言葉しかない。
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ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rhyme Anima

監督が小野さんだというのもあって遊戯王を見ているようだだった。ターン制で行われるバトル、召喚されるモンスター、何故か衝撃波の生じるラップ。もはやラップデュエルだ。特に5D'sを通ってしまった人はライフポイントが減少する音やモンスターが召喚される音が聞こえたのではないだろうか。それでいて楽曲は面白いのだからよくできている。

遊戯王は展開がよくわからなくてもデュエルで解決するという様式が完成しているが、このやり方はライフポイントなどのパラメータがあるから可能となっている。それに対して本作はラップの技術面を使ったのだと思う。ラップの素人でも山田3兄弟でも一郎が飛び抜けているのが容易にわかった。どっちの曲が強かったかは好みが出てしまうが、巧拙については好みは出にくい。その巧拙を上手く表現できた事が大きな魅力となったのだろう。
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ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

恐らく2020年代のアイドルアニメの中でも白眉と言えるものだっただろう。2010年代のアイドルアニメの総括と言ってもよい。それでいてスタッフやキャスト、楽曲制作者には新しい顔ぶれも少なくなく、この大きなIPに関わった事をきっかけに更に発展していくものもあるだろう。2020年代のアイドルアニメはこの第一滑走者を基準に測られるのだから恐ろしいものである。
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今年は世界レベルで大きな問題も発生し、放送のスケジュールが変わったりもしたが、それでもアニメを楽しめてよかった。特に今年の秋期クールはこの先数年と比較しても粒揃いのアニメが放映されたと言えるだろう。2021年もアニメを見たりしていきたい。

侑の空、Youの地図

あらまし
高咲侑はスクールアイドルでもプロデューサでもないのに部室に自然と入っていける特権的地位を得た。これは既存のセルフプロデュース型アイドルアニメとアイドル運営系ソーシャルゲームのいいとこ取りをした形態である。しかし、この特権的地位はファンが少ないからこそ成立したものであった。ファンが増えてしまえばそんなずるい存在は許されない。理由のない特権が許されなくなればただのファンになるしかない。そこで最終回は同好会メンバーから客席に送り出され、一介のファンという立場に落ちた。一方、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会はそう簡単に終われないコンテンツだ。しかもこれだけ人気と認知を得た高咲侑なしでの続編はありえない。そこで楽曲提供者という立場を示唆してエンディングを迎えた。これは高咲侑が視聴者にとってアイドルになった事に他ならない。

初めに

大好評の内に放送終了したラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、今回はその主役たる高咲侑について見ていきたい。

アニガサキではアイドルアニメの慣例通りお当番制を採っており、個別回を通して話数が進む。同好会自体は早期に再結成されたが、実質的なスクールアイドルとしての加入はお当番回であると見ていいだろう。お当番回も個々が抱えているトラブルを解決し、スクールアイドルとしての自分を確立するという伝統的なものとなっている。勿論、このトラブルは基本的に侑が介入して解決する。

部活動として行われ指導教員もいないスクールアイドルはセルフプロデュースアイドルである。一方、侑のスクールアイドルを支援する立場はプロデューサやマネージャといった事務所運営型のソーシャルゲームのプレーヤのようでもある。ゲームのアニメ化としては1つの形態なのだろう。

いいとこ取りのあなたちゃん

セルフプロデュース型のアイドルアニメだとリードできるような存在がいるものだ。グループのリーダだったり、伝説的なアイドルだったり、ライバルだったりと類型は色々あるが、きっかけになるような存在がいる。その火種を用いてアイドルは自らアイドルになっていく。その過程で自ら抱える問題と対面する。そしてそれを解決する事によってアイドルになるのである。

一方、事務所運営型のソーシャルゲームでは各人が抱えている問題を解決する為にプレイヤが存在する。そうでなければプレイヤの存在価値はない。また、アイドルのスカウト時を除けば、キャラクタはそもそもアイドルなのでアイドルになるというプロセスが存在しない。アイドルとしての有り様やアイドルへの向き合い方は変わったとしても、アイドルというロール自体に変更はないのだ。

アニガサキではそもそも同好会に属していた者からスクールアイドルをほぼ知らなかった者までもがスクールアイドルになる。一度壊したはずの組織を使い回す形となっている為、新たにアイドルになっていくセルフプロデュース型で出てくるようなアイドルになるイベントも、事務所運営型のようにアイドルとして抱えていた問題を解決するイベントもできてしまう。わかりやすいのは前者は歩夢・璃奈・果林、後者はかすみ・せつ菜・彼方だろうか。

発生する問題に対して侑が介入しすると解決されて各キャラクタがスクールアイドルとして成立していく。その為に侑は同好会とともにいなければならないし、問題解決という実績により同好会とともにいる事も許される。みんなを後押しするセルフプロデュース型アイドルの縁の下の力持ちのような存在でありつつ、アイドルをスカウトしてくるプロデューサのような事もする。ライブにおいては舞台裏と客席を行き来し、ファンとして楽しむ事までやってのけている。アイドルの役に立ちたいが、組織運営を見たいわけではなく、それでいてファンとしても楽しみたいという視聴者の願望器としてとてもよくできている。

自己解決できるアイドル

先に挙げなかった愛・エマ・しずくは問題解決に対して侑の介入がかなり弱い。愛とエマはほぼ自己解決だし、しずくは1年生組の中で解決された。彼らに共通するの多彩である点である。基本的に如才ないキャラクタである上で、スポーツ万能だったりバイリンガルだったり演劇をやっていたりと複数の分野で活躍している。故に自己解決への障壁が低い。一方、せつ菜・璃奈・果林も複数の分野での活動はあるものの、そもそも行動や性格に縛りがある。これが劇中での障害となるので侑は介入している。

では、自己解決させるとどうなるのだろうか。セルフプロデュース型のアイドルアニメとしてみれば何の問題もない。リードする立場のキャラの出番が少ない回において、自己完結した自立するアイドル像やリーダではなくパートナーと問題解決していくアイドル像を示していく様式はどちらも人気である。前者は愛、後者はエマ・しずくである。特に後者は既存媒体でも表現されていた関係であるそうなので既存のファンに向けた表現になっている。また、愛→エマの連続は愛の自己完結性を示して侑の絶対性を低減させてから、自分の問題解決の為とは言えエマが他者に介入するという侑の特権すら使うという流れになっている。自己解決させる事によって表現するスクールアイドルの幅を広げているのだ。

それでいて侑は全く何もしなかったわけではない。アンケート用紙を落としたりしている。しかしそれ以上は介入しない。侑には何もしないをさせたのである。

あなたはどこにいる?

10話以降はアイドルになったらどうなるかという話である。個人の問題を解決してアイドルになった以上、次の困難はアイドルに変わった事により発生したり顕在化したりするものになる。そこでフォーカスが当たるのが上原歩夢である。元々スクールアイドルをほとんど知らない、侑とともに閉じた世界にいた歩夢は自分にファンが付いて応援されるなんて意識は持っていなかっただろう。これは元々同好会にいたメンバや始まる前からファンがいたであろう愛や果林は勿論、スクールアイドルが近親者にいた彼方や友人ができた璃奈には提供できない視点である。

侑が同好会に入り浸れたきっかけは歩夢のの最初のファンであったからである。そこから問題解決という実績を以て同好会に不可欠な存在となった。これによりスクールアイドルではないがスクールアイドルの近くにいられるというかなり都合のいい立場を手に入れた。しかしファンの登場によりその特権的な立場ものきっかけが失われていく。1話で歩夢のステージを見ていたのは侑1人だったが、2話3話と進む毎にどんどん規模が大きくなり、6話以降では予告してイベントを開催するにまで至っている。規模が大きくなるのはファンが増えている証拠だろう。ファンである事自体は特別なものではなくなったのだ。

そして、ファンが付いてしまったら、そのファンに意識が向いてしまったら、それはファンに対するスクールアイドルになってしまう。スクールアイドルとしては正しいだろうが、あなたの為のスクールアイドルになったはずなのにあなたの為のスクールアイドルではいられなくなってしまうのだ。

そのギャップが歩夢の苦悩を生んだと同時に、これは侑の立場の危うさも露呈する。スクールアイドルでもない、プロデューサでもない、やっている事は裏方のように見えて好きに客席にも行ける。こんな自由なファンが許されるのだろうか。もう"あなた"は特定の個人を指す言葉ではない。客席にいる多くのファンを指す言葉になってしまったのだ。

こうなると信仰のようになってくる。信仰が付いたら偶像の側にいるには神官となる他ない。実際、スクールアイドルフェスティバルの運営として渉外や環境整備等をしている。しかし、この路線の先に待っているのはマネジメントや各技能の専門化である。焼き菓子同好会はこれをやって同好会メンバと高咲以外は入れなかった部室への侵入を果たしている。だが、能力の競争をやってしまうと規模が大きくなるにつれて役割が細分化されるので全員に関わり難くなるだけでなく、ただのファンでいながら特別な立場にいるという高咲の都合のよさが失われてしまう。

アイドルを見る場所

都合のよい存在でなくなる時、それでも残したいものは何か。それは恐らくアイドルのファンという要素だろう。アイドルアニメなのにアイドルが見られなくなったら本末転倒である。それは即ち客席からアイドルを見る事を選ぶという事である。だが、それを侑が自ら選ぶ事はできない。何故ならそれをするには自分が特権的な立場にいる事を意識していなければならないからだ。侑がわかっていてああいった行動をとっていたとしたらただの嫌らしい人になってしまう。故に外界からのイベントが必要である。

そこで機材が壊れたり雨が降ったりする。侑は技能があってその立場にいるわけので機材は直せないし、アイドルではないので雨を晴らす事もできない。更に機材はアイドル自身が直してしまい、雨に対する対処は新たなファンがやってしまった。侑が解決しないといけない問題はもうないのだ。実際、スクールアイドルフェスティバル当日にやっているのもビラ配りという専門性よりも暑くても我慢できるようなアイドルへの情熱が重視されるような作業である。

こうして無力さを見せてつけから同好会から客席を送り出されるのである。もうスタッフとして袖からは見られない。あのライブは特別な立場の引退セレモニーだったのだ。これにより"あなた"を個人からファン全体へ変え、同好会は皆の為のスクールアイドルになったのだ。それでも侑はファンでいられる。ただのファンになってしまったが、それだからこそみんなの為の虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会を楽しめる。そしてこれは同好会に自分を捧げなくてもいい、転科して自分の道を選べるという事でもある。これはスクールアイドルを選んだ各メンバとも重なるだろう。

一方、それまでの関係が消えるわけではない。ファンが増えたからこそ、最初のファンは特別になる。アイドルとしてみんなの前でその特別さを出す事はできないとしても、侑の為だけのステージは開ける。もう歩夢は12話の時点でそれをやってしまっている。

特別な場所でアイドルを見たかったができる事がなければその場所は維持できない。故に客席に降りればファンとして楽しむことはできる。しかし、アイドルと個人的な関係は続いていく。客席から見るしかないが願望を持ってしまう一部の視聴者にも幼馴染との関係を望む視聴者にも向けた形になっている。形状が変わっても、願望器としての役割は残ったのだ。

Show must go on

物語としてはここまで終わりだ。未来に希望を感じさせるようなとてもきれいな終わり方だった。しかし、こんな所で虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会は終われない。これまでのラブライブの慣例としてこれで終わりではないとファンは期待するだろうし、商業的にここで展開を終わらせるなんてありえない。そしてこれだけ人気と認知を得た高咲侑のない続編はありえない。侑が再度同好会とともに進んでいく展開が望まれてしまう。

ここで音楽科への転科が効いてくるの。ただのファンでいられないなら何かを身につけるしかない。そしてスクールアイドル達といる為に楽曲提供者という立場は十分な権能だろう。更に最終回での実績がある。侑が同好会への曲を書き、同好会は侑への詞をつけた。これ以上ない実績だ。何もできないが支えられる都合のいい存在はもういない。何もできない高咲侑がいたのは高咲侑の中だけだったのだ。

散々都合のいい存在について書いてきて何故こんな事になるのか。それは我々が視聴者であるからだ。先にも述べた通り多くの視聴者がすっかり高咲侑のファンだろう。高咲侑なしの続編はない、それは即ち高咲侑がアイドルになったという事だ。そしてそれは一度袖から出なければならない。何故ならファンとして楽しむ必要があるからだ。来場していた観客の「自分もスクールアイドルになれるのか?」と言うつぶやきに対して朝香が「なれる」と応えたシーンがあったが、あれはライブが楽しかったからこそ出た言葉だろう。高咲侑がアイドルになるにはそのスクールアイドルに対する初期衝動を思いこさせる必要があった。誰かが誰かを支えて夢を叶える為に。

終わりに

高咲侑は誰かの代表としてのあなたちゃんではなくなった。しかし、新たに楽曲提供者としての立場を得るのだろう。そして楽曲提供者侑からすると同好会がYouになるという主客転倒が起きる。高咲侑の描く空を同好会はそのスコアを持って羽ばたいていく。そんなNEO SKY, NEO MAP! の続きを楽しみにしている。



作劇「しずく、モノクローム」

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 第8話「しずく、モノクローム」はサブタイトルの示す通り桜坂しずくのお当番回だ。しずくは演じるというパーソナリティがあり、演劇部にも所属している為、劇中劇をを通して話が展開されるというこれまでとはかなり毛色の違う回となっていた。実際、音響としても既存回とは違う作り方*1をしていたらしい。演劇部部長を小山百代が演じている事もあり、レヴュースタァライトを想起した者も多いようだ。

今回はこの「しずく、モノクローム」がこの演劇部部長によって作られた舞台だったのではないかという論を展開していきたい。

29秒の女

一部では29秒の女と呼ばれていた演劇部部長だが、行動としては演劇部の先輩・部長として真っ当な事しかしていない。2話までは基本的に先輩らしく稽古で指導したり誘ったりする程度だし、8話では降板の通知という部長に負わせられがちな役割を果たしている。勿論、黒しずくとしても文句ない演技をしている。表情や仕草からの読み取り方はあるにせよ、まともでちゃんとした演劇部の部長と言えるだろう。

さて、この部長がどのような人物であるかはほとんど明らかにされていない。精々リボンの色から3年生とわかるくらいだ。にもかかわらず、兼部の終了への反応や稽古の連れ出しからそれなりにしずくを気に入っていると取れる描写はある。ここから部しずと取るのはとても自然だ。特にしずかすという関係がある為、第3者の介入が印象に残りやすく意識してしまうのは仕方ない。

しかし、私がここで意識したいのはこの部長が3年生という部分である。部長があの部で舞台に立てるのはもうこの1年しかない。今回の合同での舞台もこれで最後だろう。そこでしたい事とは何か。

もう1人のしずく

今回は舞台がテーマである為、劇中劇と実際のやり取りがしばしばリンクしている。特に劇中劇で主役の歌手が自分との対話をするシーンが白しずくと黒しずくとして回想としても実際の舞台としても描かれている。果たしてこれはどういう位置づけだろうか。この白しずくと黒しずくのやり取りは8話では4度あるのでそれぞれ見ていきたい。

1度目のやり取り

まずこのやり取りは冒頭から始まる。役に乗せてしずくの内面を描写した素直に見てもいいが、この役をしずくが演じるとしたらというシミュレーションでもこうなるだろう。これは配役を決めたり演出をする立場であればしているはずのものだ。今の私ではこうなってしまうというイメージとしても、今のしずくではこうなってしまうというイメージとしてもあり得る。

このシーンが終わるとしずくは校内新聞の取材を受けている。更にその後に部長から降板の通知を受けている。不安に思っていたら降ろされてしまったとも取れるが、時系列順に取ればしずくがスクールアイドル部の活動の間に演劇部内で行われたシミュレーションとも考えられる。アイドルとして取材を受けながら役者として不安に思う事はあろうが、理想のアイドルになりきった時にそう思うものだろうか。あの時点では演じられているという自覚があったとすれば、この場面は部長達によるシミュレーションだったと解釈できそうだ。

2度目のやり取り

ここは降板された事に懊悩するシーンだ。1人ストレッチをしながら過去の自分を役柄に重ねている。実際の舞台では本当の自分をさらけ出してでも歌いたいという黒しずくの主張に続くわけだが、自分を隠し続けてきたという過去を振り返るだけで白しずくは膝をついてしまう。今の自分では役に重なりすぎて十分に役を演じられないという状態に陥っているのだろう。

場面の前後は両方ともしずくが1人でいるシーンだ。こうした点からもこのやり取りはしずく自身の回想と言えそうだ。

3度目のやり取り

3度目は2度目の続きといった趣だが、2度目よりも更に自分に寄せた形になっている。現実で言われた「さらけ出す」という表現もそのまま部長の言葉を使っている。歌手という役とスクールアイドルという自分がないまぜになってきており、結果的に役作りになっている。

また、この時の前後もしずくは1人でいる。特にシーンの前は自ら回想に進んでいくような描写もあるのでこれもしずくの内面だろう。

4度目のやり取り

最後のやり取りは舞台上のやり取りに見える。実際に役として2人が演じられている。しかし、この時だけ身長差がある。しかも18:53頃に初めて身長差が現れたように見える。4度目のやり取りは身長差があるという指摘が為されているが、私は身長差が現れたのはこの時刻からだと思う。何故ならこのシーンで劇伴が変わったからだ。今回の劇伴は舞台音楽として作られている以上、画として連続しているように見えても音楽の切り替えで流れの切り替えを示す事ができる。

シーンの切り替えがあるとしたら何があるか。直前の「待って! 私、それでも歌いたいよ」が鍵になる。これまでのやり取りでは黒しずくは追い込むばかりで何をしたいかが示されていなかった。ラストの歌のシーンの契機となる台詞が言える状態になかったのだ。しかし、その台詞が投げかけられるようになった。初めて物語のラストシーンが描ける状態になったのだ。

この状態を作りたかったのではないか。18:30-18:53の暗転から劇伴が変わるまでの前半のやり取りは理想の状態が挿入されたシーンだったのだ。だから身長差もなかった。実際の舞台ではなかったからだ。そして後半、理想のヒロインとなった桜坂しずくは舞台に立てるようになったのだ。

それぞれのやり取りの位置づけ

まず1度目はしずくが適任だが、今のままではしずくではできないだろうという演劇部の判断だ。今のままやったらこうなってしまうというシミュレーションである。

2度目と3度目はその結論に対してしずくが役と自分を重ねて内面を示すものだろう。役と同様に舞台を降ろされそうになるという経験もさせ、役作りにもなっている。

最後は前半が思い描いていた理想のシーン、劇伴が変わって後半は実際に演じられたものである。

これらはそのまま三幕構成とも照応するのだろう。アバンタイトルが第一幕、中須かすみの告白までが第二幕、そして残りが第三幕である。そう捉えるとこの回そのものを1つの舞台としても捉えられそうだ。

理想のヒロイン

劇中劇と物語が絡みながら描写されるのは舞台がテーマの話なら自然な事である。今回のクライマックスは黒しずくが「待って!」と言う場面だ。その理想を現実化できたのが荒野の雨である。さて、この黒しずくを演じていたのは誰か。演劇部部長である。あの台詞を言わんが為に今回の行動があったのではないだろうか。役柄と同じように一度は舞台から落とし、本人が持参したネックレスを許容する。全てはこの理想のヒロインを実現する為である。

そもそも今回の舞台はあまりにしずくに寄せたものになっている。まるでしずくの人となりを知った上で作っているかのようだ。劇中劇の使い方としてそうなるのはままある事だが、この回そのものが舞台だったと考えるとどうなるだろうか。配役に脚本に小道具に衣装にセット、全てに寄与しうるのは誰か。校内新聞の取材にしても話がまず行くのは誰か。人一倍今回の舞台を最高のものにしたいと思うのは誰か。これら全てに部長が当てはまる。すなわち「しずく、モノクローム」が桜坂しずくを理想のヒロインとする演劇部部長による作劇だったのだ。

アサルトリリィ BOUQUET {第1話} スイレン WATER LILY

まず見よう。

スイレン

スイレン

  • 発売日: 2020/10/02
  • メディア: Prime Video


アニメは登場人物紹介*1からもわかるように一柳隊を中心に百合ヶ丘女学院が舞台となる。1話はメインキャラは全部出るものの、主として登場するのは夢結・梨璃・楓の3人くらいだ。急に出しても初見では困るし、目立つ3人でもあるので自然な流れだろう。

主要人物と出会い、初めての戦闘をこなし、皆に迎えられるという実に王道的な1話だった。初回で難しい話をしてもついてこられないので、キャラが可愛くていい、太ももが太い、百合っぽい、バルディッシュ程度を理解させれば十分である。


メディア毎に設定が違っているようだが、アニメは舞台やノベルと結構距離を置いているようだ。ガーデンが鎌倉にあったりミリアムが若干クールといった違いがある。そして何より、1話で楓は梨璃の尻に触れようともしなかった。こんな事があろうか。あの楓・J・ヌーベルが梨璃と知り合って15分以上同じ画面にいるのに尻を触らないである。助けてもらって運命の人だと思いこむ可愛い少女になっている。もはや別人である。

しかし、安心して欲しい。アニメは12話ある。その中の十数分なんて舞台の数分と同じようなものである。いつもの楓・J・ヌーベルの姿を見せてくれるだろう。


アニメ「アサルトリリィ BOUQUET」はその名の通りモティーフとして花がよく出てくる。そこでどんな花か、花言葉は何かを分かる範囲で見ていこう。合っているかは知らないので花に詳しい人は教えて欲しい。

まずはOPから見ていくと、以下の通り梨璃の部屋にあるのは勿忘草、神琳がお茶に浮かべているのは菫、梅様が持っているのは萩となっている。割と的確な花言葉ではなかろうか。そう、神琳は貞節を盛って雨嘉と接しているのだ*2

鈴蘭、紫陽花、竜胆、アネモネ水仙は花束として梨璃から夢結へと渡っているが、アネモネ水仙が再開した時の夢結様を示しているのではないだろうか。そこに梨璃が現れた事によって鈴蘭、紫陽花、竜胆が足されたのだ。故に梨璃からゆゆ様へと花束が渡るシーンになっている。

勿忘草 真実の愛、私を忘れないで
菫(紫) 貞節、愛
思案、内気
鈴蘭 再び幸せが訪れる、純粋
紫陽花(青) 辛抱強い愛、無情
竜胆 悲しんでいるあなたを愛する、誠実
アネモネ 儚い恋、見捨てられた
水仙(黄) もう一度愛して、私の元へ戻って

サブタイトルのスイレンはそのまま梨璃の事だろう。副題であるPurely of heartはそのまま花言葉と言える。

本編には明確に出てくるのはハナニラくらいである。病室で梨璃と夢結様の間に配置されているハナニラは窓辺に立つ夢結様のように長い影を作る。そのまま今の夢結様を示しているのだろう。

スイレン 清純な心、信頼
ハナニラ 悲しい別れ、耐える愛

そしてEDではタイトルをそのまま示す2色の百合だ。純粋無垢な夢結と死者への手向けとなる白百合、そして過去に縛られたままである夢結様を指す黒百合。実に象徴的である。

白百合 無垢、純粋、尊厳
黒百合 恋、呪い


明日の放送も楽しみだ。花について調べるのは楽しいので次回もやりたい。